巻頭言-藻谷から皆さまへ

ノーベル経済学賞を受賞したオーストリア学派の経済学者であり、思想家であるフリードリヒ・フォン・ハイエクは、自然科学と社会科学を対比して、前者を客観的、後者を主観的と規定しました。社会科学における研究の対象は、事実のみならず認識や見解、世論と言った主観的なものを含み、客観との境界が曖昧であるからと言うのがその理由です。確かに社会科学では「見解に対する見解」を重ねることが当たり前のように行われる中で、理論と言っても客観的な実証を満たすものではなく、先人の見解を洗練して理論化することにエネルギーが注がれます。経済学者が現実を知らず、理論的にはこうなるはずだ、と言って始めた政策が、全く用をなさないのも不思議ではありません。

このように言い換えることもできます。例えば物理学であれば、弾頭をどの角度でどの初速で発射すれば、目標に命中させることが可能か計算できるでしょう。もちろん、風向きや工作精度による誤差は生じますが、それは理論を左右する本質的な問題ではありません。一方で、経済学者は2%インフレを達成するのに、どれほどのマネタリーベースを供給すれば良いかを計算することはできませんし、計算したとしても2%インフレが達成されるとは限りません。黒田日銀は、取り敢えずマネタリーベースを135兆円から270兆円に倍増するという大雑把な計画で量的緩和を始めましたが、2倍という数字に計算上の意味があったわけではなく、結局効果が出ないまま2016年7月末現在400兆円を超えるところまで増額しています。同じ科学でも、ここまで違うことに気づいて頂きたいと思うのです。

それでも経済学を含む社会科学は存在し、客観的実証なきまま評論の評論が繰り返されているのはなぜでしょうか。それは、政治的な理由、もっと分かりやすく言えば社会における「説得」に必要だからです。為政者が、ある政策が有効だと言う時に、「学者がそう言っていること」が、世論形成を容易にするからです。企業の経営企画室が、業績計画を立てるために来年の景気を知りたいと思った時も同じです。信じる信じないは別にして、「著名な研究機関がそう言っている」のであれば、社内で計画に意義を唱える人も少なくなるでしょう。客観的でなくても、説得するには権威のようなものが必要なのです。

こう言ったことを書くと、随分と皮肉屋だなと思われるかも知れません。しかし、先の読めないこの時代に、先が読めると言う人たちの技量をまず疑うのは当然のことです。その人たちが依拠している「科学」のレベルを認識しておくことが必要なのです。正直なところ、私はある事象をめぐって、(例えばブレクシットの影響について)大きな影響があるという勢力と、大した影響はないという勢力が論壇で繰り広げる議論には、あまり興味がありません。それは、悪く言えば、説得の技術を競っているだけで、自然科学のように客観的な分析に近づこうと言う純粋な動機に欠けていると思うからです。ましてや、主張する研究組織にそう主張する背景(関係者からの圧力など)がある場合、動機は極めて不純です。もちろん、何らかの判断をする際に、賛成反対双方の言い分を聞く必要はあります。しかし優秀な経営者、投資家なら、議論の優劣に引きずられるのではなく、説得力に劣っている意見であっても、結局は自分の考えに基づいて選択するのが良いことを知っているでしょう。

このような時代に、エコノミストは何をすれば良いのでしょうか。もちろん、上記のような議論に身を投じるのはその一つです。これはテレビの討論番組や、経済週刊誌の誌上で毎週繰り返されている風景です。でも、私は少し違う考えを持っています。エコノミストにできる重要な役割は、むしろ正しく直前の過去(recent past)の現実を測定することです。世論形成における討論会は、どんどん先へと興味の対象を移して行ってしまいますから、ある事象(例えば政策でも地震でもかまいません)が経済に与えた効果の測定はないがしろにされがちです。しかし、270兆円がいいのか、400兆円がいいのか、それともいくら積んでもダメなのか、分からない人たちが政策を打っている場合、それに対する唯一のフィードバックは現実を見ることにあります。思想的に言えばプラグマティズムということになりますが、未来を演繹的に(こうなるからこうなって、次にこうなってと)予想することは欺瞞であり、むしろ分からないから取り敢えずやってみて、ダメならすぐに取り消すと言う作業を繰り返すことで、最適な状態に近づけるしかない、という考え方です。

残念なことに、昨日発表された先月の○○データは△△だったと言う解説には、来年の世界はこうなると言った解説に比べて、あまり需要が感じられません。しかし、私は地道にそれを20数年にわたって続けてきたことで、幸いにも機関投資家から一定の強い支持を得ることができました。私は、ヘッジオンラインにおいても、基本的には同じスタイルで皆さんに情報を提供して行きたいと思っています。

投資におけるこのスタイルのメリットはもう一つあります。それは、現実と期待の乖離に気づくことができることです。およそ相場が好転すると、良いニュースが多く流れるようになり、ますます期待が高まるものです。しかし、現実の経済統計が期待を追ってきちんと付いてくるとは限りません。期待と現実の乖離が大きくなり過ぎると、どこかで相場は転換します。このような状況に対して警鐘を鳴らすことができるのも、直前の過去を継続的に分析する方法以外にはないでしょう。

むろん私以外にも「データは世間が考えているのとは逆のことを示している」、「世間が知らない真実」などと言う評論家はいます。ただ、多くの場合、こうした逆説は特定の説得をするための技術として用いられ、その目的で逆のデータを探すことで作り上げられます。私の場合は順序が反対で、データを平時から毎月「定点観測」して状況を分析することが第一であり、自説への説得には重きを置いていません。

以上のような点で少し特異かも知れませんが、ヘッジオンラインのメンバーの皆さんと共にデータの世界を散策して行きたいと思います。次回は、実際のデータを見ながらデータ分析の方法論を解説していく予定です。


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藻谷俊介のプロフィール

藻谷俊介
(Shunsuke Motani)

藻谷俊介

株式会社 スフィンクス・インベストメント・リサーチ設立 代表取締役

2「日経ビジネス」、「週刊エコノミスト」など一流経済誌に長年定期寄稿してきた気鋭のエコノミスト。その定点観測に基づく時系列的な景気分析は、その時々のトピックス主体の報道論調とはかなり異なる。日経ヴェリタス人気ランキング(エコノミスト部門)において、1995 年の13 位に始まり、2015 年の10 位まで21 年間連続でランクイン。

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